近代マジックを作った伝説のマジシャンをご紹介します。
目次
マジックをエンターテインメント化したロベール・ウーダン
本名 = ジャン・ウジェヌ・ロベールJean Eugene Robert-Houdin
1805年生まれで時計職人の見習いをしてましたが、勉強のため時計作りの本を買ったつもりが間違ってマジシャンの本を買ってしまいました、これがきっかけで本格的にマジシャンになるきっかけになります。
22歳の時気分が悪くなり倒れたところを、後の師匠になるトリーニに奇術で命を救われ、その技に魅了されすぐに弟子いりします。これにはウーダンの作り話ではないかと言われています。実際マジックを習ったのは、アマチュアのマジシャンであった親族の叔父さんから教えられたとも言われています。
40歳でマジシャンとして本格始動
時計職人として独立した後に有名な時計職人のジャック・ウーダンのもと働くようになり、彼の娘と結婚します。そこで、ウーダンの名をもらいました。時計職人の技術とマジックの技術を使い、自動で動く人形つくりを始めたそうです。
40歳になり、マジックショーを開催し、その後小劇場のオーナーになり、本格的にマジシャンの活動を始めました。40歳でプロデビューしたマジックはすでに完成されていたようです。
機械仕掛けの精密な道具、手先の器用さ、トリックを活かすためのシンプルで美しい装置と演出。これらを一つの作品にまとめ上げ、総合芸術としての近代マジックの完成形がここで誕生しました。
しかし、1856年、イギリスのヴィクトリア女王の前で公演を行い、ヨーロッパナンバー1のマジシャンの称号を得た後、突然引退しました。
同年にナポレオン3世の命令でアルジェリアに派遣され、フランス政府に対抗していた指導者たちにマジックを披露しました。フランスから来た魔術師の魔法があまり素晴らしすぎて、対抗勢力を黙らせるきっかけになりました。
つまり、フランスの平和的兵器として使われてた事になります。
この活躍を高く評価され、フランス救った英雄という称号が与えられました。
「マジシャンは曲芸師ではない。マジシャンとは、マジシャンの役を演じている役者なのだ。」
ロベール・ウーダン
「脱出王」フーディーニ
ローベルウーダンの回顧録という本を読んで、強く影響を受けたエーリッヒ・ヴァイスという少年がいました。
彼は1891年弟とマジシャンに転向します。芸名も「ウーダン」とウーダンの師匠の「トリーニ」を組み合わせ、「フーディーニ (Harry Houdini)」という名前にしました。
1893年シカゴで行われた世界博覧会でマジックを披露し、手を縛られた状態でトランクから脱出する芸を披露して劇場などで活動し始めます。しかし、手先が器用ではなかったため細かなマジックはあまり人気ではなかったようです。
知り合いに脱出マジックに特化した芸を披露するよう勧められます。そこから、彼の成功物語が始まります。
1900年ヨーロッパツアーを行いイギリス、フランス、ドイツからロシアなどで公演し大成功をおさめ、ロシアの監獄を用いて脱出マジックを見せるなど、各地で話題を作り観客をあつめました。宣伝が非常にアメリカ的で、各地でセンセーショナルな公演をしたり、手錠抜けのトリックを見破ってみろなど挑発してました。つまり、新聞の見出しを無料で宣伝に使用していたのです。
肉体派のマジシャン「脱出王」フーディーニの誕生
しかし、繊細なカードマジックなどの評価は上がらず、コンプレックスを感じてました。そこで自ら発行してた月間マジシャンの中にライバルマジシャン達の批判する記事を書き、その批判の矛先にはあのローベルウーダンも含まれていました。その後、批判の内容が間違ってる、指摘の多くが間違ってると逆に批判されるようになります。彼の思い上がりは、目立ちたがり屋で空気の読めないことに起因するものでした。
当時マジック業界にはマジックのアイデアを考えマジシャンに販売するビジネスがあったそうで、フーディーニもアイデア買いそれを演目に入れていましたが、中々上手くいきませんでした。
しかし、1912年ドイツで最高と評された「中国の水牢」を披露します。
また、1918年 ゾウを消すマジックが大人気になりました。
浮き沈みがありましたが、一応の成功を収めたフーディーニですが、1926年楽屋に挨拶に来た学生に、筋肉隆々だったフーディーニの腹を腕試しで殴らせてくれと言われ承諾しますが、準備する前に学生が渾身の一撃をフーディーニに食らわせたため、不意をつかれ盲腸が破裂、腹膜炎を併発してそのまま亡くなってしまいました。
サイキックハンターとしても有名に
フーディーニは霊媒やイカサマを暴露してサイキックハンターと名をはせたこともありました。
なぜ、そんなにイカサマを暴露したか。それは、亡くなった母と交信するためでした。
つまり、本物の霊媒師を探してる最中に偽物ばかりに出会ってしまったのです。真偽の判断は生前母と決めていた合言葉がありそれを言い当てることができたら本物としていたようです。
結局一人も言い当てる事ができない結果になり、母との交信をあきらめ次に手を打ちます。
自身が亡くなったあと、妻のベスとの間で暗号を決めておき、自分の死後にその暗号を使って交信するものでした、この暗号を言い当てれば霊媒師が本物と断定できるとしたのです。(やってることは変わりませんね)
そして、1928年ついにアーサー・フォードと言う霊媒師が合言葉を言い当てます。
これにも、後日談がありベスとアーサー・フォードは恋仲だったのでベスが話したなどありますが、アーサー・フォードの死後彼の自宅を整理してたら、膨大な客の情報を事前に調べ上げ、膨大なファイルを作成していたことがわかりました。
アーサー・フォード自分のもとへ訪れる客を騙し、詐欺を働いていたのでした。
神様ダイ・ヴァーノン
1992年に98歳で亡くなったマジック界の神様です。カードマジック、コインマジック、カップアンドボールなどの業績を残しました。独自な理論や技術の合理的な方法論は、マジックを数十年進歩させたと言われています。
世界中のマジシャンから膨大な知識量で「プロフェッサー」という尊称で呼ばれていました。現代のマジシャンのほとんどがダイ・ヴァーノンの影響を受けてるそうです。
1919年にバーノンがマジック界のスターだったフーディニーにカードマジックを見せた時、あるマジックでフーディニーを完全に騙しきったとの事です。「フーディニを引っ掛けたトリック」として有名になりそれを宣伝に使ったようです。
1963年からはハリウッドにあるマジックキャッスル(マジックショー中心のナイトクラブ)に常駐のゲストとして迎えられ、ここで数多くの優秀な若手マジシャンを育てました。
プロマジシャンとしての活動は短い時期でしたが、全米のあらゆる地域を回り、著名なマジシャンたちと交流し、その技と知識を吸収します。
日本には、1969年にラリー・ジェニングスとともに来訪し、ツアーを行っています。
「3歳からマジックを始めたが、0歳からの3年間が惜しい」答えたという逸話があります。
「もしあなたがマジックの芸術家になりたければ、他のすべてを捨てる気持ちでなければならない」
ダイ・ヴァーノン
盲目のイカサマ師リチャード・ターナー
最後は純粋なマジシャンではありませんが、伝説の〝イカサマ師〟です。
カジノで大勝ちしたプレイヤーや、金持ちのドラ息子があらわれたときに、彼らから金を巻き上げる人です。
ポーカーやブラックジャックでは絶対に負けない技術を持っていたそうです。しかも、現在60代でそのイカサマは誰にも見破られたことがないそうです。カードが一ミリずれるだけで銃で撃ち殺される時代からなので、相当な腕前だと推察されます。
全盲で空手6段
彼は〝全盲〟です。彼が9歳の時に病気により失明し両目の視力を失ったそうです。それでも、あっさり4カードとか作る技術をもってるのです。それは、空手の教えでもある、弱点を見せるなを徹底してるそうです。
一日中カードの練習をして、食事、寝ている時もカードを手放さなさず、1日16時間も練習をしたそうです。総時間が13万5000時間=15年にも及ぶらしいです。
60代のいまでも3~10時間は練習しているそうです。
いかがでしたか、伝説のマジシャン達の逸話、共通してるのは皆一生懸命にマジックと向き合ってると言うことではないでしょうか?